2014年08月28日
手術台のよう
救急車がひたちなか市のK田病院に到着すると、診察室で御歳90歳になろうかというU院長先生が待っていた。私達は看護婦さんに家に連絡してくれる様に頼んだ。先生は私を見ながら君は外傷なさそうだから帰れるかなと言っている。私はそんなはずはないと恐怖心を押さえながら椅子に座っていた。すると突然、横に座っていた軍曹が激しくケイレンを起こしだした。看護婦さん達がいっせいに軍曹を取り囲んで隣の治療室に連れ出す。「Hさん、大丈夫?」と彼に呼びかけたと同時に、私も全身がガクガクと震え出した。看護婦さん達が慌てて私を診察台に押さえつけた。私はケイレンしながら気を失った。
気がつくと薄暗い集中治療室にいた。手術台のようなベッドに寝かされて、天井からスポットライトが体を照らしている。海水パンツのまま顔から両腕と胸そして両膝まで包帯を巻かれている。腕には点滴のチューブ、そしてペニスには排尿の為のチューブがつながっている。青白い心電図の点滅する光が闇に浮かんで時々ピコーンという電子音が聞こえる。どうやら生きているみたいだ。顔を横にすると、隣のベッドには軍曹がミイラの様に包帯を巻かれて横たわっている。突然、私は全身火傷をしたことを知り、言葉にできない恐怖心が湧いてきた。
午後9時頃だろうか、病院から連絡があったと、軍曹の奥さんが来た。そして午前零時頃ようやく家人が来た。病院は連絡するのを忘れたらしく、午後10時頃に警察から連絡があり慌てて来たそうだ。私を見て愕然としている。
夜中に看護婦さんが二人来て、「どうやっぺかな」「こんなんでいいっぺ」と茨城弁で話ながら、包帯の隙間から『えんとう水』という液体を流しこんでくれた。重大事なのに可笑しくて私は笑ってしまう。包帯が乾かない様に三時間おきに来て『えんとう水』を流しこんでくれたが、その度に私は笑った。朝になり先生が来て、尿が出ているので助かると断言してくれた。全身70%の火傷で排尿できなければ死んでいたそうだ。どうやら私達はU先生の応急治療処置により一命をとりとめたようだ。集中治療室では『えんとう水』に浸され、点滴を打ちながら一日4000から5000cc排尿していた。火傷も範囲が広いと脳がそういう指示を出しているのか、痛みはあまり感じなかった。3日目にようやく海水パンツを脱いで乾いたパンツに履き替え、そして4日目に一般病棟に移った。
病室は6人部屋で私と反対側に軍曹のベッドがある。壁を背にして体を起こして寝ているとお互い向き合って姿を見ることになる。軍曹は簡易コンロに近い分、私より重傷だった。私は体の前面だけだったが、軍曹は背中まで火傷しているので、背中を布団につけることができず、起き上がった姿勢で賭け布団を包帯した両腕で抱えていた。会社には事件を知られたくない軍曹の思惑に反して、当日夕方の首都圏ニュースで実名報道されていて、すでに仕事関係者や知人には知れ渡っていた。家人の買ってきた茨城の新聞朝刊にも我々の事故は載っていた。私は火傷が顔や体に残ることが心配でもあり、そうなるとこれからの人生は変わるのだろうかと考えたりしていた。
ベッドで向き合いながら軍曹と簡易コンロ会社を訴えようかと話していたら、その会社から弁護士がやって来て、炭をおこすのは使用説明になく、訴えても無駄ですと言われた。我々の一発逆転、一攫千金のもくろみは瞬時に消え去ってしまった。
気がつくと薄暗い集中治療室にいた。手術台のようなベッドに寝かされて、天井からスポットライトが体を照らしている。海水パンツのまま顔から両腕と胸そして両膝まで包帯を巻かれている。腕には点滴のチューブ、そしてペニスには排尿の為のチューブがつながっている。青白い心電図の点滅する光が闇に浮かんで時々ピコーンという電子音が聞こえる。どうやら生きているみたいだ。顔を横にすると、隣のベッドには軍曹がミイラの様に包帯を巻かれて横たわっている。突然、私は全身火傷をしたことを知り、言葉にできない恐怖心が湧いてきた。
午後9時頃だろうか、病院から連絡があったと、軍曹の奥さんが来た。そして午前零時頃ようやく家人が来た。病院は連絡するのを忘れたらしく、午後10時頃に警察から連絡があり慌てて来たそうだ。私を見て愕然としている。
夜中に看護婦さんが二人来て、「どうやっぺかな」「こんなんでいいっぺ」と茨城弁で話ながら、包帯の隙間から『えんとう水』という液体を流しこんでくれた。重大事なのに可笑しくて私は笑ってしまう。包帯が乾かない様に三時間おきに来て『えんとう水』を流しこんでくれたが、その度に私は笑った。朝になり先生が来て、尿が出ているので助かると断言してくれた。全身70%の火傷で排尿できなければ死んでいたそうだ。どうやら私達はU先生の応急治療処置により一命をとりとめたようだ。集中治療室では『えんとう水』に浸され、点滴を打ちながら一日4000から5000cc排尿していた。火傷も範囲が広いと脳がそういう指示を出しているのか、痛みはあまり感じなかった。3日目にようやく海水パンツを脱いで乾いたパンツに履き替え、そして4日目に一般病棟に移った。
病室は6人部屋で私と反対側に軍曹のベッドがある。壁を背にして体を起こして寝ているとお互い向き合って姿を見ることになる。軍曹は簡易コンロに近い分、私より重傷だった。私は体の前面だけだったが、軍曹は背中まで火傷しているので、背中を布団につけることができず、起き上がった姿勢で賭け布団を包帯した両腕で抱えていた。会社には事件を知られたくない軍曹の思惑に反して、当日夕方の首都圏ニュースで実名報道されていて、すでに仕事関係者や知人には知れ渡っていた。家人の買ってきた茨城の新聞朝刊にも我々の事故は載っていた。私は火傷が顔や体に残ることが心配でもあり、そうなるとこれからの人生は変わるのだろうかと考えたりしていた。
ベッドで向き合いながら軍曹と簡易コンロ会社を訴えようかと話していたら、その会社から弁護士がやって来て、炭をおこすのは使用説明になく、訴えても無駄ですと言われた。我々の一発逆転、一攫千金のもくろみは瞬時に消え去ってしまった。
Posted by gsdg at 16:26│Comments(0)
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